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がみ流

がみ流

小説「淡い青春の一ページ」

『淡い青春の一ページ』





 その先生は国語の先生以上に読書家だった。その辺の作家よりも沢山の本を読んでるような気さえした。だから授業中もよく本の話に脱線した。私はそんな先生が大好きだった。
 その日も先生は本の話をしてくれた。学生時代に読んだ小説で、自分の人生観を変えるような内容だったと、先生は照れくさそうに言った。そして、先生はその小説に登場する詩をそらで朗読した。先生のその声、言葉は今でも私の耳に残っている。それくらい印象的で感動的だった。
 その日の放課後、書店に直行し、その本を買った。家に帰ってすぐに読んだ。それからその詩を覚えるくらい、何度も何度も読み返した。本のせいで徹夜したのは初めてだった。
 学校でも、昼休みも放課後もその本を離さなかった。中庭で暗唱したりもした。口下手で内気な私は先生と喋ることもできなかった。でもこの本のおかげで先生に一歩近付けたような気がして嬉しかった。
 卒業式が近付いた頃、私は押しつけるように先生にサイン帳を渡した。緊張のあまり、先生の顔を見ることもできなかった。その時もお守りのようにあの本を持っていた。
 卒業式の日、先生はサイン帳を渡し、私の頭を優しく撫でた。そして微笑みながら、僕よりも巧く朗読するじゃないか、と言ってくれた。最初で最後の私のためだけの言葉。先生は私がその本を読んでいることも、その詩を朗読していることも知っていたのだ。私は嬉しくて、その場で泣いてしまった。

「へぇ……」
 懐かしそうに昔話を語る彼女を見ながら、僕は意地悪く笑った。
「君にそんな過去があったとはねぇ」
 昔の話よ、と彼女は恥ずかしそうに言った。
「それからその先生は?」
 僕の言葉に彼女は一瞬表情を曇らせると、少し悲しげな笑みを浮かべた。
「さぁ?それから一度も会ってないもの。私にとっては青春の一ページ、でも先生にとっては大勢いる生徒の中の一人……だったんじゃないのかなぁ」
 彼女はぼんやりと視線を空に投げた。彼女にこんな物憂い表情をさせる、その教師に僕は軽い嫉妬を覚えた。
「で、その本って何だったのさ?」
 彼女は、はにかんだように微笑んだ。
「『ドグラ・マグラ』よ。夢野久作の」
 僕は自分の表情がひきつるのをはっきりと感じた。
「じゃ…じゃあ、その詩っていうのは巻頭歌の『胎児よ胎児よ……』ってヤツ?」
「ううん」
 彼女は静かに首を振った。
「『キチガイ地獄外道祭文』よ。まだ覚えているわ」
 呆然とする僕などお構いなしに、彼女はスカラカ、チャカポコ、と歌い始めた。
 その奇妙奇天烈な文句が聞こえる中、僕は淡いラブストーリーに強烈で痛快なオチをつけてくれた彼女を、恨めしげに眺めることしかできなかった。


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